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[教職]特別支援教育論(1):階段のぼりの話

author : A.Mizunoawa   [ 一般 ]
2019.10.03 Thursday 20:00 | - | trackbacks(0) | 

みなさん、ご機嫌いかがお過ごしですか。工学研究科生命先端工学専攻M1のA.Mizunoawaです。

今回は特別支援教育に関する教職の授業を紹介します特別支援教育とは障害を持つ児童・生徒のための教育を指します。以前、こちらの記事で《能力に基づく公正な選抜》に関して言及したことがあるかと思いますが、それにも深く関わってくる話を今回はしようと思います。

まず、以下に示す『階段のぼりの話』という物語の要約をご一読ください。

『あるところに小さな島がありました。そこでは夕暮れになると島の真ん中にある山の階段に子供たちが集まってきて、一生懸命に階段のぼりの練習を始めます。子供たち必ず一段ずつしか階段を登りません。大股で駆け上がることなく、一段ずつ踏み外さぬように下を見ながら忙しなく駆け上がといった練習をひたすら続けています。何故なら、この島では十七歳になると階段のぼりの測定検査が実施されるためです。一段ずつ踏み外さずに速く正しく山の上まで駆け上がる競争を行い、階段のぼりが優秀な者がこの島では出世していきます。どうしてそうなったかというと、昔この島では王様が山の頂上に住んでおり、海岸から早く、しかも姿勢正しく伝令を伝える必要があったためです。その名残りは今では何の意味も無く、誰もがそのことを変だと思ってはいますが、有能な子供を見つけ出し努力する子としない子を選別する方法を誰も他に知らないため、この慣習はいつまでも残り続けてきました。階段のぼりが得意な子供は褒められ、自信や誇りを持つようになります。一方、苦手な子供は褒めてもらえず、自分は駄目な人間なんだと思い込み、何もかも嫌になってしまうケースが多いです。この現状に対して長老はこう言います。「若い頃の苦労は良いことだ。しかも、努力した分だけ報われる。なんとも公平なことではないか」と』

この物語は「優秀とは何か」を読む者に問いかけます。そうして我々は、能力に対する評価基準は社会的なものであり相対的なものであると気付かされます。この物語では、階段のぼりがたまたま得意だったから人生で大きく得をする子供がいる一方で、たまたま苦手だったから他の素晴らしい才能に気付くこと無く落ちこぼれていく子供もいるわけです。それでは、選別基準が階段のぼりであることに問題があるのでしょうか? 我々は学校で「学力」という指標によって優劣を付けられますが、この選別基準は絶対的に正しいものなのでしょうか?

「社会にとって有用な人材を選出する方法として適当かどうか」という視点でこの質問に対して答えようとした場合、それは優生学に根付いた解答をしていることになります。優生学とは「優れた人間を増やし(積極的優生学)、劣った人間を減らす(消極的優生学)」ことを掲げた思想のことです。これを突き詰めた例はナチスドイツのユダヤ人迫害です。この例は国家による強制があった点とそもそもの前提が科学的に誤りであった点で問題があるのですが、それらを克服した考え方としては新優生学というものがあります。これは例えば「出生前診断により産まれてくる前の子供が障害を抱えてくるとわかった場合に中絶するかどうかを両親が決められる」といった考え方などを指します。この場合、診断は科学的で、選択権は当事者にあります。新優生学の是非は人により分かれますが、ばっさりと「健常者でないのなら産む価値は無い」としてしまうこのものの見方には少なからず抵抗を覚える人も多いのではないでしょうか。

ここまで考えて、そもそも階段のぼりでも勉強でも何でも、できないよりも「できること」の方が「優れている」と見なす風潮自体が正しくないのではないかといった疑問が浮かび上がってきます。

そもそも、健常と障害は二項対立ではありません。自閉症スペクトラムという言葉に代表されるように、実際にはできるとできないの程度はグラデーションであって、実体として健常者や障害者が存在しているわけではありません。現実における区別や差別を巡る問題というのは非常に複雑であり、単純な答えに辿り着くことはできません。善と悪・自己と他者・健常と障害といった風に、私たちは複雑な問題を二項対立に置き換え単純化することをしてしまいがちです。しかし、どちらかの立場から正義を語ることで問題が解決するわけではありません。だからこそ、まずは複雑な問題を複雑なままに受け止め、現状よりも少しでもましな選択肢を考えていくことが大事なのです。

ちなみに授業では「階段のぼりの話」の続きを考えようというテーマでグループワークを行ったりもしました。旅人がやって来てパラダイムシフトを起こす話、天災が来て有能だと思われた人々が有能でないことが判明する話、制度に疑念を抱いている住民たちの不満が爆発して内乱が起きる話、人間では無いが人間よりも階段を登るのが上手いロボットが島に持ち込まれ島民の価値観が揺らぐ話、などが出てきました。どれも寓話的で色々と考えさせられる面白い話だなと思います。

それでは、今回はこの辺で。See you again!

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